京まち洛々記

内側から見た京都をご案内

京都は音楽の都だった!?

 京都は音楽の街である。こういうとピンとこない人もいるかもしれませんが、京都は学生の街ということもあり、学生サークルから生まれるバンドが多い。

あ、この人も、このバンドも京都だったのかというのも今でもあったりします。

 楽器店や街なかにビジュアル系のバンドマンや貧乏くさいフォーキーな人がいても、舞妓・芸妓さん、修行僧という極端な存在がいるから、心置きなくけったいな存在に触れることができるのです。

 私の地元ですと、富小路仏光寺にある磔磔(たくたく)、寺町四条の都雅都雅(とがとが)。さらに大宮下立売にある拾得(じっとく)、クラブ/ライブハウスではMETROなど名ライブハウスがあり、日本唯一の自治体直営の京都市交響楽団京響)、最近では立命館大出身のくるりによる京都音楽博覧会京都大作戦などのイベントとロックからクラシックに至るまで京都は音楽を知ることができる環境に恵まれているといえます。学生の街、自治文化が一体となって京都独自の濃密な音楽文化を形成しています。

 

 ミュージシャンの素養がある人なんていくらでもいると私は思う。例えば子供の頃にピアノやバイオリンを習っていれば、譜面は読めるしそれなりに作品も作ろうと思えば作れる。私は3歳からピアノを習っていましたが、先生に演奏、楽曲との向き合い方、譜面の読み方も含め、熱心にご指導して下さったので、(譜面は落書き帳なんてまさに)というのも幼い私にわかりやすい教えでした。このようなフォーマットがあれば、少なくとも音楽を始める事はできます。鼻歌だけで名曲を作れたり、少し聴いただけでKeyやコードがわかったり、絶対音感があったり……

 本人が気づいていないところでそれを隠しもったまま、生活をしている。ミュージシャンとして生計を立てる事を選ばなかった人間はきっとそうやってミュージシャンとして生計を立てている人を嫉妬させることがあるのかもしれない。それは音楽を作り続けるうえで苦悩する道を選ばなかったという意味もあるから。

  学生時代、私は少しの期間だけバンドをやっていて、ピアノをやっていた事もあり、演奏はそれなりにできましたが、バンドはあくまで狭い枠内のみで一部はプロになってもいいという志向があったけど、デモを送っただけで(私が送った訳ではないけど)終わった形でした。プロにならなかった,目指さなかった理由はたくさんありすぎてここでは省く事にします。

令和の幕開け京都新時代に向けて

 5月1日平成が終わり、令和の時代がスタートした。

 

 即位の礼は今年の10月東京にて行われる。この即位の礼明治維新による東京奠都により衰退しかけた京都に旧皇室典範第11条において、「即位の礼大嘗祭は京都で行うという規定があり、昭和天皇まで即位の礼が行われていました。しかし、現在の憲法になって以降、平成も令和も東京で行われる事になり、京都御所ではお茶会が開かれるだけにとどまっています。私も最近知ったのですが、平成元年にワコール創業者の塚本氏を中心に大嘗祭だけでもと譲歩する形で京都財界、文化人を中心に誘致する運動があったそうですが、京都市民の間ですら一部でしか盛り上がらなかったのが現状だったそうです。以前、ブログ記事でも書きましたが、これは京都という都市の多義性のひとつになっている。かつて京都=王城の地だったのが、天皇、御皇室ですら、その側面のひとつにすぎないということなのかもしれません。

 そして、現在あるのは双京構想という両都制を目指す構想があります。明治維新で江戸が東京と改められ、東西両京になったものの、現在まで東京一極集中が続いているままとなっています。即位の礼大嘗祭を京都に戻すというのは警備上の問題が一番にあるわけですが、京都側の行政の対応とビジョンが不明確な点をどうするか本気で京都で行っていただきたいというのであれば、市民、府民に理解を広げ、財界だけでなく、寺社、町衆の意見も積極的に取り入れる事も必要です。

 儀典都市・京都の復活は文化庁京都移転よりも時間と労力が必要になるでしょう。

 しかし、それを行うのはまずは失いつつある都市民としての自信をもう一度見つめ直す事も大事かもしれません。

 

 2000年に京都市は四半世紀のビジョンを纏めた「京都市基本構想」を発表。以降、これに沿って具体的基本計画が設定されています。全文を「私達京都市民は~」で通してあり、簡単に説明しますと、京都市民よもっと自信を持ちましょうという内容です。私が幼少の頃に既に市民が自信を失いかけているのを各界から選出された委員の皆が認めたという事にもなります。そして京都の得意とする目利き、極み、巧み、始末の文化etcを再確認し改めて身に着けてこれまで以上に他所からやってきた人をあっと言わせたいのです。そんなに力まなくてもいいのにと思いますが、これもまた京都人のプライドなのかもしれません。

困った人達だなと呆れられるかもしれませんが…

 

 30年ほど前に京都の都市ビジョンは日本の文化首都を目指すという形が考えられ、2016年に文化庁京都移転が決定。以前の記事にも書きましたが、名ばかりの文化首都になるのではなく、伝統を守りつつ、新しい文化が躍動し、絶えず外に向かって情報発信ができる都市。

未来の京都も様々な要素を持った都市であってほしいと思います。

平成という時代は何だったのか?~私的な音楽~

 平成最後の記事は音楽関連。

  ボブ・ディランの「時代は変わる」を出すまでもなく、時代は常に変わり続ける。

 私は生まれたのが遅すぎて平成の一番いい時代、とりわけ音楽が盛り上がっていた時代をリアルタイムで知らない。小沢健二スピッツやMrChildrenの全盛期も皆後追いだ。だから音楽に関しては遅れてやってきた世代という感じがしてしまうのです。

2000年代半ば歳の離れた姉の影響により、私もクラシック以外の音楽に興味を持ち始め、ロック、ポップスを知るようになる。

 基本的にロック、とりわけポップスは通俗的で卑しい部分がある。しかし、そのある種下世話な部分に魅力があるのも事実。名曲にはそして、音楽が始まるというイントロに秘密が隠されている気がする。

 

 埋め合わせの時代というものが色濃くなった平成。特に2010年代はそうで、段々といい意味ではジャンルレスになり悪い意味でどっちつかずな状況になった印象がある。例えばロックフェスにもアイドルグループが出演するのも珍しくはなくなり、アイドル、アニソンにえ? この人が書いたの!?というのもあったりします。ロックの場合、大衆芸能とは本来ほど遠いもので、作り手のエゴ、聴き手の振れ幅に制約を設けないところに良さがあり、それがポピュラリティから遠い理由なのかもしれません。

 

私が選んだ平成の名曲…たくさんありすぎるので5曲に絞るのは結構時間がかかりました。独断すぎる5曲ですが、自分史の反映と自己投影化によってもたらされたものなのでご勘弁願えればと思います。

 

「ロビンソン」Spitz

最初この曲を聴いたとき、ロビンソンという歌詞が出てこないと些末な事を思ったりしましたが、時代と聴く人を選ばないタイムレススタンダードな一曲。聴き手にノスタルジーを世代を問わず、懐かしさやここではないどこかへという感覚を抱かせる。

ロビンソンという冒険小説のようなタイトルに本当の意味が意味をなさなくさせるようなユートピア。歌詞だけを見るとジェンダーレスでキュートでダークさを感じちょっと怖いくらい。ここまで明確に少女性を表現できる人は他にいない。

 

「KYOTO」JUDY AND MARY

 京都人としてはこの曲をやっぱり選びたいものです。両親の世代であれば、「京都慕情」「北山杉」かもしれませんが、昭和世代ではない(といってもこの曲もリアルタイムではしらない)のでこちらに思い入れがあります。地元の人間の感覚と旅で京都に来た両方の視点があり、桃色の宴よ桜の花よ~と曲と詞を見ますと祇園東山区的京都)を描いているように思えます。ギターのTAKUYA氏(実家は洛中の喫茶店)は変態性を感じさせるぐらいの名プレーヤー。屈折した方向性が多くの名曲を生んだ。

 

「ばらの花」くるり

反対にこちらは学生的京都。実際、立命館大のサークル出身であるくるりは学生バンドの延長線上に今の活動があるわけですが、安心な僕らは旅に出ようぜ~思い切り泣いたり笑ったりしようぜというリフレインとフルカワミキのコーラスが華を添える。

初期衝動を経たうえで冷静な考察に至る時期に生まれた曲は、花というものを主題として名曲を生み出した。ロックというものをジャンルレスに捉え、最近ではクラシックにも活動幅を広げとことん追求するというのが京都人気質を感じさせます。

 

 

「プールの青は嘘の青」

「こどなの階段」   南波志帆の名曲を2曲選びました。

両作品とも提供者のソングライティングの上手さが光る。

「プールの青は嘘の青」はキリンジ堀込高樹氏による作品としてはちょっと爽やかすぎるのではと思った人もいるかもしれません。歌詞から連想されるのは郊外、田舎にある学校。より一層ブルーが際立つような空と濁りのないプールの水。その情景に照らし合わせて、描かれるこの世代でも持つ女の子の陰湿さを少し隠しながら十代の少し身勝手な空想と純粋さ。シンクロする両義性は心地いい余韻を与えてくれる。

 

「こどなの階段」BaseBallBear小出祐介氏が作詞、サカナクションの山口一郎氏作曲。どこか太宰治の「女生徒」的な危うさと永遠に続かない青春の一瞬が混ぜられた多面性がエレクトリカルに響く。大人でも子供でもないという微妙に揺れ動く時期を表現し、制服、自転車二人乗り、ゼッケンというワードを散りばめながら最後は大人になりたいという展開にもっていく歌詞も文学的で見事。当時10代だった私に深く印象に残ったのでした。

 

京都と政治と、

統一地方選選挙カーうるさい)の時期。京都の主な問題は観光公害と都市交通問題です。

東山・祇園を中心にゴミのポイ捨てや私有地に許可なく入り撮影。訪日観光客による深刻なマナー違反が目立っている。(これは京都だけではなく日本全体の問題です)

 これに業を煮やし祇園町協議会が市長に直談判する事態となっている。これだけではなく、違法民泊や白タクといった問題もあり、より一層厳しい取り組みが求められています。このブログでは散々取り上げていますが、京都は決して観光都市ではありません。わずか1割の市民を食べさせているだけに過ぎないし、観光だけは絶対にやっていけないのです。観光公害をほっておけば、より京都市から離れる住民も増え衰退を招きかねないという強い危機感を市民も行政も持たなければなりません。私は観光そのものを否定しないが、行政の過剰な観光を売りにするやり方には疑問を覚えます。これから先を見据えて脱・観光都市を目指してみては?

 思うようにいかない京都に辛辣な京都批判をするのは何を隠そうそこに住む京都人自身なのです。そんな様々な問題を抱える京都ですが、政治に関してはつかず離れず。どこかずる賢さがあります。

 

 戦後まもなく四半世紀、共産党社会党の推薦で京都大学統計学教授だった蜷川虎三氏が知事を務めた。この知事、知事公舎に住まず教授時代からの借家住まいを続けていたのだそうで、全国知事会への参加は拒むわ、道路建設といった公共事業もよしとしない人物だった。この反中央の府知事を京都人は頑なに支持した。しかしそれと同時に革新系から保守系に転向した高山義三氏を同時に支持し続けたという。なんというバランス感覚と思わないでもありませんが、これにより京都では自民党共産党が二大政党という形になっているのです。今でも特に府議会・市会選挙では自民党共産党の第一党争いで、選挙区によっては共産党候補がトップ当選をしても誰も驚かない。寺院関係者や伝統産業関係者に共産党支持する人がいたり(※共産党が伝統産業保護を重視している為)普段国政選挙や首長選では自民党などに投票しているけど、府議会、市会選では共産党候補に投票する人もいたりする。党の理念に賛同しているのではなく、単なる判官贔屓の類です。立候補している人は別ですが。

京都と海、府なのか市なのか

京都には海がない。こんな言い方をすると時々、海あるでしょ?と言われる事がある。

 だから京都市には海がないと言い直さなければいけない時がある。現代的機能をもった都市に文化遺産が多く共存し、周りは自然に囲まれている。百四十万以上の都市を流れる川で鮎釣りができるのも京都ならでは。京都人は海より川に馴染みが強い。

 

 基本的に京都市民には京都府民という意識が極めて薄い。丹後、丹波地方を京都と言われるとどうしても馴染めない。代々京都の町なかに住み続けてきた者は特に。京都市は上京、下京の市街を行政地域として1889年に誕生した。その後、郡部を吸収合併し11の区からなる政令指定都市で府県並みの行財政権を持つ。今でも住民自治の意識がとても強い都市です。江戸時代の日本の三都と呼ばれた京都、大阪、江戸はそれぞれ都市文化、都市生活があり、別格という意識がありそれが府民意識を弱めているのかもしれません。

 プロフィールに京都府出身と書いていても、京都市のどこかで生まれ育った人なんだなという感じで認識することが多い。京都市とその周辺の宇治や亀岡、長岡京はともかく、それ以外で生まれ育った人に会うとなんかレアだなと思ったりもします。さて、海の話に戻すと、京都人は海に密かに憧れをもっている人が多い。昔は丹後や若狭の海に海水浴に出かけるときは泊りがけで行くのも珍しくありませんでした。私自身、海というのは今でも遠い存在なのです。

京都と学校と

 今では少なくなりましたが、京都は公立学校において制服を導入してこなかった都市でした。私の両親も中学高校のいずれかで、制服に袖を通したことがなく、中高で制服を着た事がないという人も少なくない。親も教育者側もその存在を認めてこなかった。

 私の卒業した高校も制服を元々は導入しておらず、2000年代に入ってからブレザーの制服を導入しました。制服を導入していない高校は自由な校風である事が多いのですが、これは自主性を重んじる生徒自治の象徴として広がっていったものだったのです。

 

 府立高全日制高校は全て制服導入し今では市立のごく一部しか残っていません。鴨沂高も私が高校生の頃に制服を導入した。制服を導入した高校の多くがかつての自由な校風が失われました。女子ですとスカート丈やメイク、髪を染める、ピアスなんてもってのほか。しかし、校則が厳しいと抜け道を楽しむ子もいる。ナチュラルメイクでバレないように工夫を凝らすなんてまさにそうでした。反対に自由だと最後は画一的になる。制服のない高校や大学では卒業式で女子は羽織袴、男子はスーツとか。

 

 私が小学校に入る前、京都駅で数百人の高校生に遭遇した事がある。みんな大きなバッグをもっていて何をしに行くんだろうと思ったらそれは修学旅行へ行くのだと親から教わった。制服のなかったその当時の学校(どこかは覚えていない)の生徒は思い思いの恰好をして他の地域へ行く。あんたらには負けへんと女子はとびっきりのオシャレをして駅に集合していた。今にして思うと良い光景だなと思い、自分が京都人である事に誇りに思う出来事のひとつでした。

 私の高校の修学旅行は地味なものでしたが…。

京都人のいけずとは何か?

よく他の地域の方から京都人は"いけず"だ、付き合うのが難しいと言われる。

中には陰湿だとか性格が悪いといった的外れな意見も多々ありますが、このイケズについて説明したいと思います。

 いけずとは簡単に言うと、自分で自分の身を守る弱い者の自衛手段あるということです。

京都は応仁の乱の足利、織田、豊臣、江戸時代の徳川幕府薩長同盟といった他所さんが荒らし、時に戦場となりその度に町衆は家を焼かれ潰されてきた。(私の先祖もそうです)京都人の武士嫌いはここからくる。町衆の血筋の私もその意識があるせいか、時代劇や大河ドラマを一度も見た事がない。公家、町衆の二つの階級で成り立っていた京都ですが、所司代町奉行は少数精鋭で権限が大きい割には人員は少なかった。京都は武士の影が薄い都市だったのです。なので、他の地域で武士に対する愛着が強く、郷土の英雄といえば武士。これが日本人多数派だとすると、京都人は思わぬところで日本人の少数派になってしまうなと思います。

 時の支配者に付くと次代では家が滅びる。権力者には従わざるを得ないが、近づき過ぎるのも良くない。京都人が付かず離れずなのはこの為です。身に染みているから外部からやってきた者には一定の距離を取り内側を見せたりはしない。町衆のお屋敷が掘で囲われ中が見えなくしてあるのも故なき事ではないわけです。

 ぶぶ漬けの話も作り話で、多くの人は家には上がらず玄関口で立ち話をするだけで、招待でもされない限り家に上がりこんで食事はしない。仮に家に上がっていて夕食を出されなくても失礼には当たらない。土地が強いる悲しい性といえますが、臆病者というよりは細心にならざるを得ないのです。

 碁盤の目に町衆や職人が人口密度の濃い中で生活をする。そのなかでお互いの間でも深入りはしないという文化を築いてきた。呆れられるかもしれませんが、家の前の水撒きや掃除も隣の家の前までやればお節介になるし、自分の家の前だけだとケチという事になる。その為、10センチか20センチぐらいだけお隣さんとの境を越えて行う。これが長い共栄の知恵なのです。せせこましい話ではありますが、やる人は随分減っています。

 それと、京都は10代以上住まないと京都人にはなれないと言われます。しかし、これも真っ赤な嘘で十代以上住んでいる京都人なんて町衆でも少数派ですし、そんなのは下京から上京の和菓子屋や呉服屋さんのごく一部だけなのです。例えば室町の呉服商には近江商人をルーツに持つ人もおられますし、下京の町衆には伊勢にルーツを持つ人もいる。西陣の職人さんは丹後、丹波、北陸にルーツを持ち、大阪、奈良、滋賀等から嫁いできた人もいる。京都学派と言われた名大学教授もノーベル賞受賞者も他の地域出身が多い。京都の支配層はほとんど地方からやってきた人ばかりで、その人々がしのぎを削る場所が京都という都市のひとつの側面です。なので、京都に三代住むと誰でも京都人として扱われてしまうという言い方が正しいのかもしれません。そして京都は相互理解と助け合いがある。その為、時に内側に閉じてしまう事もある。それが一見さんお断りの風習です。しかし、仲間の紹介があれば一見さんでも深く受け入れてくれ細部を知る事ができるのもまた京都なのです。

 ただ単に余所者に厳しいだけではありません。それをよくわかっていない京都人もまた多かったりしますが…