京都・洛中日記

内側から見た京都をご案内

京都人はなぜプライドが高いのか?

今週のお題「京都」

 

京都中華思想と首都意識

 

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 日本の首都は? と質問されたら多くの人は「東京」と答える。京の町なかで生まれ育った私も間違いなく東京と答えるでしょう。しかし、京都は今でも日本の都と言われる。これはどうしてでしょうか?

「京都」という名は帝(天皇)が住む都、アジア圏内ではそのまま首都という意味になります。なので海外に行くと東京の人間より京都人の方が扱いは良いなんて話も未だにあるんだとか。

延暦十三年(794年)に桓武天皇は二つの詔を発している。

一つ目は、平安京遷都の詔(みことのり)「葛野の大宮の地(ところ)は山川も麗しく、四方(よも)の国の百姓(おおみたから)の参出来ん事もたよりにして……」というものだ。二つ目は山背国を山城国に改称する詔だ。山の背後の国から自然なる山の城の国へ。新しい都、平安京の誕生である。

 

 遷都の詔勅について我々京都人には格別な思いがある。

 これは代々京都に生まれ育った人間でなければ到底理解し得ない感情だ。時々、京都の人間は天皇に置き去りにされたという趣旨の発言をする輩がおられるが、それは京都人に向かって歴史を知らない愚か者ですと宣言しているようなものだ。明治二年(1869年)に天皇側近の反対がありながらも、明治天皇は東京へ行幸。その後、太政官も追って京都を離れた為、京都は首都機能も失った。明治天皇の後を追った市民も多かったが、東京に移った金属工芸等は今、一軒も残っていないそうです。(その後の京都についてはまた別の記事で詳しく記したいと思います)当時の京都市民は遷都反対の声を当然ながら挙げた。当時、明治政府は決して遷都ではなく臨時の行幸であると京都市民に何度も説明したが騙される形となってしまった。天皇の東国行幸蝦夷、東北といった情勢が不安定な地域を鎮撫する為、江戸を東京と改称し、東西両京とするが、正式な都は京都である。「掛けまくも畏き平安京に御宇す倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)が宣りたまふ」と即位の宣命した明治天皇はついに戻る事はなかったが、その後も遷都の詔は出されなかった。明治天皇は京都へ戻る意思があり、「ちょっと行ってくる」と京を離れたといわれています。京都御所の整備と保存を命じたのも将来的に天皇・皇室が戻る事を示唆していたと言えるのかもしれません。その為、現在でも国会の内閣法制局の答弁でも法律上、首都を定める法律は存在しない。あくまで事実上、日本の首都は東京であるというものだ。

(国会を東京に設置する法律も存在しないのだとか)

 

 奠都という事がある。この言葉には諸説ありますが、都の支部を作る、都の名を貸すという意味合いで使われる。なので江戸城跡に出来た皇居は行在所であり、京都人の感覚からすると武家の城に公家さんを住まわせるというのは違和感しかない。

 今でも年配の方を中心に東京を地方、田舎呼ばわりするのはこの為です。東京へ行く事を東(あずま)へ下る(東路)という言葉は昔から使われていました。明治政府の欺瞞に騙された京都市民は東京なんかと対等に扱わないでほしい。明治の一時期、京都を西京(さいきょう)という呼び方が流行ったが、市民はこれを拒否。都の本家本元は我々京都で、いつでも京都が日本最上級の存在で自分達が日本の中心である。自分たちの文化を中心に考える。京都以外の地は野蛮。恐ろしいぐらいのプライドの高さ。これが京都中華思想と呼ばれるものです。(これでも私は、中華思想は薄い方だ)

「くだらない」という言葉は都のものとして地方に降りていくほどの事もないモノの事だ。

 京都が好きな人もこの中華思想には辟易する人が少なくない。何をお高く止まっているんだと思う人も中にはおられましょう。しかし、そう目くじらを立てることもありません。京都の素晴らしい伝統と文化が維持されているのも中華思想が原動力になっているおかげというのも確かなのです。誇りのない地に文化は生まれませんし、プライドのない者に創造は望めるはずもありません。中華思想のない京都は、それはもうただの地方都市に過ぎない。京都を理解することは京都中華思想を理解することにほかならないのです。これは決して排他的なものではございません。京都の伝統・文化に従う者はどこの出身であろうと受け入れる。そうでなければ学生の町としても成立はしないわけですし、その寛容さを忘れてプライドだけ高いのは愚かな事です。

 

 では今も京都人が首都の座を取り戻したいと思っているのか? 答えはノーです。

 

 政治・経済まで京都が首都だと思っている京都人はまずいませんし、(もしも、いたら紹介してほしいぐらいだ)国会や首相官邸などがあっても邪魔なだけです。天皇、文化面で首都の座を取り戻したいと思っていても、私達京都人はそこまで考えているわけではないのです。日本の国柄を考えてそうすべきだというだけで、どれだけ他の地域の人間に批判を浴びようともそれを曲げることはないでしょう。先ほども申しました通り、恐るべきプライドの高さを持つのが京都人です。他の地域の京都批判は大抵京都に恩恵を与えているつもりでいる観光客目線かやっかみに過ぎない意見なので耳を傾けるほど京都人も暇ではない。その点、お隣の大阪人は京都の事をよく見ていて、痛い所を突いてくる。マストドンにおられる大阪の方、私が勤める会社の大阪生まれの上司がまさにそうだ。「きっつい事言うわ」と思いながらも、大阪の人は京都の事を批評するのが上手いと感心したりするのです。

 

今後の京都の在り方とは? 本当の意味での世界の文化首都・京都を目指して

 

 一部の政治家や皇室の専門家が天皇は京都にお戻りになるべきと意見を耳にしますが、現実的には厳しい。それこそ2,30年或いはそれ以上の時間がかかるでしょう。(文化庁の移転ですら1987年に国へ要望が始まった為、30年はかかっている事になる)即位の礼京都御所でという意見もありますが、これも警備上の問題など課題が多くあるのが現実です。京都府・市が掲げている双京構想というものがあります。

 まだ構想から5年ほどしか経っていませんが、これは「皇室の方々が出席される国際会議や宮中行事の京都での実施などにより,皇室の方々が京都へお越しいただく機会を増やし,1週間,そして1箇月間という長期の御滞在へとつなげ,将来的にはお住まいいただくことを目指します。」という構想で、分かりやすく解説を加えるのならば京都・東京の両都制を目指すという案です。(海外ではオランダのアムステルダム、ハーグなどがその例)

 私は(全面的に賛成というわけではないですが)日本本来の国柄を取り戻す上で良い構想だと思っています。元々城下町・江戸が東京に改名されたのも両京を意味するものであり、首都と王都を分けるのは国際的には珍しい事ではありません。ただ京都人全員のコンセンサスが取れていないのは確かです。「京都ぎらい」の著書で知られる井上章一氏は、「中京、下京の山鉾町の人は尊王精神を持っておられない」という趣旨の文章を見ましたが、これは間違いです。長刀鉾の鉾頭(長刃)刃先が前方に向かず必ず右側、向かって左に向いているのは京都御所祇園社に刃先を向けない為で、そんなところに我々京都町衆の尊王精神が現われているのです。(外から見た京都の本はあまり信用しないようにお願いします)

 個人的に驚いた事なんですが京都御所を東京の皇居より下に思っている方が意外と多い。これは全くの間違いで旧御所でも離宮でもなく、今でも皇居と同じく現役なのです。御所は王城の地・京都の精神的シンボルなのです。本当は京都をわざわざ付ける必要はなく、御所(おんところ)だけでよく、意味はそのまま今、陛下(帝)がおられる場所という意味です。

 双京構想は現実的には儀典都市京都の復活が先で、皇族方にお住まい頂くのはもっと先の話です。

 簡素にというのであれば、より京都御所即位の礼大嘗祭を行っていただきたいと思います。(昭和天皇までそうだったのだから実はこれが一番実現可能)東京一極集中是正だとか、京都の為ではなく、歴史や伝統に則ってやるべき。ただそれだけの事です。

宮内庁は大して役にも立っていない官僚の天下り団体と化していますから、我々京都人のほうが遥かに皇室の弥栄の為の知恵を持っていると思います。儀典都市として復活してから将来的には、天皇陛下、皇室に京都にお戻りいただくべきで、最初に上皇(正式には太上天皇)に京都に住んでほしいという案を先に出した京都市側の考えには違和感を覚えたものです。

 文化庁の京都移転が決まりましたが、私は文化庁が京都に来たからといってすぐに京都が文化首都になるとは思っていませんし、それだけで文化首都と名乗るのも無理がある。都合の良い時だけ京都人のプライドを出されても困るのです。なぜ京都が文化首都なのか? それを内外にしっかりとビジョンを示し、学生、若い人を中心に躍動できる場を増やす。音楽、芸術といった活動の環境整備などそれをやった上で文化首都になれるかどうかでしょう。

 最後に様々な考えや見方がありながらも多くの人々に注目を集め想われる京都はやっぱり幸せな都市だなと思います。日本人の何十倍にも凝縮したのが京都人であり、室町時代から続く町衆の血を受け継いでいるのが私なので、度し難い部分があれば、どうぞ笑って見過ごしていただきたいと存じます。これだけ長々と文章を書きましたが、少しでも京都の事をご理解いただければ幸いです。