京都・洛中日記

内側から見た京都をご案内

平成という時代は何だったのか?~私的な音楽~

 平成最後の記事は音楽関連。

  ボブ・ディランの「時代は変わる」を出すまでもなく、時代は常に変わり続ける。

 私は生まれたのが遅すぎて平成の一番いい時代、とりわけ音楽が盛り上がっていた時代をリアルタイムで知らない。小沢健二スピッツやMrChildrenの全盛期も皆後追いだ。だから音楽に関しては遅れてやってきた世代という感じがしてしまうのです。

2000年代半ば歳の離れた姉の影響により、私もクラシック以外の音楽に興味を持ち始め、ロック、ポップスを知るようになる。

 基本的にロック、とりわけポップスは通俗的で卑しい部分がある。しかし、そのある種下世話な部分に魅力があるのも事実。名曲にはそして、音楽が始まるというイントロに秘密が隠されている気がする。

 

 埋め合わせの時代というものが色濃くなった平成。特に2010年代はそうで、段々といい意味ではジャンルレスになり悪い意味でどっちつかずな状況になった印象がある。例えばロックフェスにもアイドルグループが出演するのも珍しくはなくなり、アイドル、アニソンにえ? この人が書いたの!?というのもあったりします。ロックの場合、大衆芸能とは本来ほど遠いもので、作り手のエゴ、聴き手の振れ幅に制約を設けないところに良さがあり、それがポピュラリティから遠い理由なのかもしれません。

 

私が選んだ平成の名曲…たくさんありすぎるので5曲に絞るのは結構時間がかかりました。独断すぎる5曲ですが、自分史の反映と自己投影化によってもたらされたものなのでご勘弁願えればと思います。

 

「ロビンソン」Spitz

最初この曲を聴いたとき、ロビンソンという歌詞が出てこないと些末な事を思ったりしましたが、時代と聴く人を選ばないタイムレススタンダードな一曲。聴き手にノスタルジーを世代を問わず、懐かしさやここではないどこかへという感覚を抱かせる。

ロビンソンという冒険小説のようなタイトルに本当の意味が意味をなさなくさせるようなユートピア。歌詞だけを見るとジェンダーレスでキュートでダークさを感じちょっと怖いくらい。ここまで明確に少女性を表現できる人は他にいない。

 

「KYOTO」JUDY AND MARY

 京都人としてはこの曲をやっぱり選びたいものです。両親の世代であれば、「京都慕情」「北山杉」かもしれませんが、昭和世代ではない(といってもこの曲もリアルタイムではしらない)のでこちらに思い入れがあります。地元の人間の感覚と旅で京都に来た両方の視点があり、桃色の宴よ桜の花よ~と曲と詞を見ますと祇園東山区的京都)を描いているように思えます。ギターのTAKUYA氏(実家は洛中の喫茶店)は変態性を感じさせるぐらいの名プレーヤー。屈折した方向性が多くの名曲を生んだ。

 

「ばらの花」くるり

反対にこちらは学生的京都。実際、立命館大のサークル出身であるくるりは学生バンドの延長線上に今の活動があるわけですが、安心な僕らは旅に出ようぜ~思い切り泣いたり笑ったりしようぜというリフレインとフルカワミキのコーラスが華を添える。

初期衝動を経たうえで冷静な考察に至る時期に生まれた曲は、花というものを主題として名曲を生み出した。ロックというものをジャンルレスに捉え、最近ではクラシックにも活動幅を広げとことん追求するというのが京都人気質を感じさせます。

 

 

「プールの青は嘘の青」

「こどなの階段」   南波志帆の名曲を2曲選びました。

両作品とも提供者のソングライティングの上手さが光る。

「プールの青は嘘の青」はキリンジ堀込高樹氏による作品としてはちょっと爽やかすぎるのではと思った人もいるかもしれません。歌詞から連想されるのは郊外、田舎にある学校。より一層ブルーが際立つような空と濁りのないプールの水。その情景に照らし合わせて、描かれるこの世代でも持つ女の子の陰湿さを少し隠しながら十代の少し身勝手な空想と純粋さ。シンクロする両義性は心地いい余韻を与えてくれる。

 

「こどなの階段」BaseBallBear小出祐介氏が作詞、サカナクションの山口一郎氏作曲。どこか太宰治の「女生徒」的な危うさと永遠に続かない青春の一瞬が混ぜられた多面性がエレクトリカルに響く。大人でも子供でもないという微妙に揺れ動く時期を表現し、制服、自転車二人乗り、ゼッケンというワードを散りばめながら最後は大人になりたいという展開にもっていく歌詞も文学的で見事。当時10代だった私に深く印象に残ったのでした。