京まち洛々記

内側から見た京都をご案内

京都人の感覚と教育について

コロナウィルス対策の為、すっかり自宅にいる事が多いのが当たり前になったこの頃。

こういう状況のせいか、教師となった高校時代の同級生と交流するようになり、彼女とオンラインで話すうちに教育、育てるとは何かという話になりました。

 

「グローバルな人材育成」や「青少年の健全な育成」だとかこういうフレーズが跋扈しているせいか私は育てるという言葉に違和感を持ってしまう。自分自身を持て余し扱いあぐねている大人に“育てる”という偉そうな事ができるのか?

大人が実は自分が内側に抱え込んだもがきやあがきを埋め合わせる為だけではないかと思ってしまいます。育てるより「育った」じっくり時間をかけて大人になれるのが京都で、教えられはするけど、最後は育っていく。職人の街でもある京都はこんなところにも関係しているといえます。

 

 以前の記事にも取り上げたこの状況下でどさくさに紛れて9月入学、義務教育機関における留年・飛び級の暴論もそうです。彼女曰く賛成している教師は義務教育の意味をわかってないか教師としての適性能力がないと手厳しい。(先送り決定のニュースが流れてますが引き続き監視は必要)

 現状を破壊すれば理想に近づいたり、自分の思うがままになると思っている幼稚な人間が増えているという事なのかもしれません。合理的と思う人も中にはいるかもしれませんが人を使う、選ぶという事は翻って自分が他人に使われ、選ばれる事でもあります。「あなたはもう不要、存在価値はない」そんな社会を受け入れるのか?

合理的な事ばかりやお金だけではないものがあり、それを忘れた社会に品位はありません。

彼女曰く、空っぽな人間、人間もどきを社会に出したくない。なかなか言い得て妙なものです。合理性や損か得ばかり考えている人間。不安であるがゆえにそれに向かうのはわからないでもありませんが、「うちはうち、他所は他所」今の時代ほどこれが重く響いていると思います。

 

 子供や若い世代が勝手に自然に育っていく。しかし残念ながらそういう場所が本当に少ない。大人達の視線に守られ、時には鍛えられたりもする。しかし安心・安全に過剰なまでに気を遣いより監視の目が強くなる。極端に目立つ事を恐れ、横並びの状態になり孤立する事を恐れる。

出る杭は打たれるではなく、出る杭は伸ばしてあげる。京都はこれからもそういう都市であってほしいと思います。