京まち洛々記

内側から見た京都をご案内

モダン・シティ京都~明治150年によせて~

 明治維新は京都にとって史上最大の危機だった。明治天皇が東国へ行幸し、ついにそのまま帰って来られなかった。戦国の動乱であっても亡命を繰り返す愚かな将軍をしり目に天皇だけは京都を絶対に動かなかった。政治の中心が実質的に江戸に移っても。その天皇、皇室が京都を離れてしまった。市民の落胆は大変大きいもので、人口は数年で2/3に激減(34万人から23万人まで)してしまった。事実上、帝都の座を失い京都はもう終わったなんて声もあがったのだという。

 

しかし、第二の奈良になるな!というスローガンの下、(奈良の方ごめんなさい)先人の京都人は、この史上最大の危機に敢然と立ち向かった。近代都市として生まれ変わらせる為には外部の新しい強力なエネルギーと市民がタッグを組む必要があったのである。第二代京都府知事の槇村正直長州藩、三代目知事の北垣国道は但馬藩の出身である。最初、京都の人々は彼らを快く思わなかった。次から次へと新しい政策を打ち出す彼らを横目でみながら「今度来たガキ、ごくどうだ(北垣国道の洒落)」と。しかし、彼らの熱意は次第に京都人に広がっていき、気力を失いかけていた京都人に誇りを取り戻させたのです。

  

 明治の京都は全国にさきがけた新しい試みを次々に実行した。琵琶湖疎水、日本初の水力発電(世界二番目)を建設。北垣のもとで建設を指揮した田辺朔郎は学校を出たばかりの22歳の青年だった。また日本初の市電も敷設。(昭和53年に全廃)あまり知られていませんが、日本で二番目に地下路線を取り入れた都市でもあり、昭和六年、現在の阪急京都線の西院と大宮間が地下線で東京の銀座線に次いで開通しました。

 

 教育面では文部省が出来る前から町衆の人々がお金を出し合い(私の先祖も寄付金を出したのだとか)、日本初の小学校を計64作り、近代的学区制度も日本で初めて導入。京都の確固たる信念「まちづくりは人づくりから」はこの時生まれたといっていいでしょう。

高等機関では京都帝国大学(現・京都大学)、同志社大学をはじめとする大学が続々と設立。学問だけでなく知恵者も生み、ベンチャー企業も多く生んだ。堀場製作所の創業者が企業した当時はまだ京大の学生だったそうだ。

あらゆる分野で京都は先進的だった。

 伝統と革新の都市である京都が最も革新的だった時代。革新そのもの自体を伝統のひとつとして扱う。京都人の何でも日本初じゃないと気が済まないのはこの頃からすでにあったのかも? 京都というのは、絶え間ない変化と新しいエネルギーの爆発。伝統・文化をしっかりと守りつつも、大胆な変化を恐れない。これこそが京都という都市の本質です。最大の危機を脱し、明治、大正の京都は時代の最先端を行くモダン・シティとして復活。不死鳥のごとく蘇ったのです。

 京都は他所さんが良くしてきた街というのはこういった部分にあると言えます。

 

 実をいうと、明治、大正になってから京都がモダン都市になったというわけではありません。自治都市文化が応仁の乱以降からありました。観光で京都を訪れ、なんでこんな狭い通りに、ひっそりとしたところに和菓子屋さんや仕出し屋さんがあるんだろう?と思った人もおられると思います。

 応仁の乱という危機を乗り越えた京都に次の主役となった新しい力に満ちた新興の市民階層、町衆が登場。私の先祖がこれに当たります。乱の荒廃から復興した京都は上京、下京ふたつの地域からなる複合都市となっていました。それぞれ独立した自治をおこない、今でいう市議会議場みたいなものもあり、上京は一条革堂(行願寺)、下京は六角堂がその役割を担っていました。

 

 時の支配者、権力者はいつ変わるかわからない。だから大事な事は話し合いをして決めていく自治の文化が生まれた。その為の寄り合いや話し合いには場所が必要であり飲食物が必要になるし、手土産を持ってくる人もいる。だから町内には最低1軒、仕出し屋さんや和菓子屋さんが必要になる。

 生活の視点でみると、自治の文化、社交文化を形成した点において京都は日本初のモダン都市だったという見方もできると思います。一般的なイメージとしてありがちな歴史都市だとか観光だとかいう以前に自治都市としての京都が先にあると代々京の町なかに住み続けてきた家の者として申し上げておきます。