京まち洛々記

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日本人の季節感と9月入学問題

 新型コロナウィルスの影響ですっかり季節を感じる事ができなくなっているこの頃。

9月入学という愚かな案が世間を賑わせています。

私は大学が4月、9月の入学から選択できる形であれば別に反対はしません。

ただし、全てを一律に9月スタートにするという事に関しては大反対です。

もし推し進めてしまえば、2ヵ月以上の休みとなり、家庭負担の増大やただでさえコロナウィルスの影響が出ている社会や子供、親は耐えられませんし、移行するのには数兆円規模のコストがかかる。そんな事をするぐらいならオンライン授業の環境整備を全国で行い(当然予算は国が出す事)、学校に行けるようになった地域から再開すれば良いだけの話です。

小中高においてはメリットは全くなく、デメリットだけしかないと言っていいでしょう。(教員となった高校時代の同級生も論外と答えていたのも納得)

 

私が最も違和感を持ったのがグローバルスタンダードだからという意見です。

各国の小中高の入学時期を調べてみますと、

主要国ではアメリカは7月入学、9月はイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、中国、インドネシアベトナムetc 8月は北欧諸国、スイス、台湾。1月はシンガポール、マレーシア、南アフリカ、2月はオーストラリア、ニュージーランド、ブラジル。3月は韓国、アルゼンチン、ペルー、チリ 4月は日本、インド、パキスタン5月はタイ。10月はエジプト等、見事にバラバラで9月入学が国際標準というのは大ウソだというのがわかります。

 

 日本が言うグローバルは愚ローバルに過ぎないというのがこれでわかると思います。

要は真剣に考えていない。どさくさに紛れてこの際変えてしまえこの程度のレベルでしょう。

 イギリスの思想家マイケル・オークショットは「見知らぬものよりも慣れ親しんだものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実を、無制限なものよりも限度あるものを……、」と近代啓蒙主義、合理主義的社会改革を否定し、習慣や実践の中で得られる「実践知」が重要と強調しています。安易な見通しを持つのがいかに危険か? 改革に対する根拠なき楽観主義が蔓延している日本や世界に警鐘を鳴らす言葉と言えます。

もう一つは教育水準を上げる為という意見ですが、全体的に日本の教育水準がそもそも低いのか? 教育水準を下げているのは経済面だけを見れば緊縮政策による教育投資、文化予算の削減等が原因です。プログラミングも意味不明。英語教育重視なら私立の学校に行きますし、愚劣な某教育評論家の留年案も義務教育においては不要です。義務で留年するぐらいなら内容見直しをするべきで、飛び級なら海外の大学に行けばいいだけの話。

 

9月入学をすれば増々教育の質は劣化する事確実でしょう。

従来の制度=既得権益や旧態依然というのは単なる暴論です。

120年以上続いてきたという事は日本の季節、風土にあっているという事です。

日本人はいい加減、浅薄な改革至上主義から脱却しないと増々没落の一途を辿るだけになるでしょう。

 日本に限らずどこの国にも生活のリズムがあると私は思っていて、それが多様だからその国の文化もまた魅力である。4月の桜が咲くころに入学するというのが、日本人の季節感リズム感に浸透しており、それを無くそうという発想がどうしても理解できない。これに限らず初夏なら鮎を食べたくなるし、6月には水無月、7月には祇園祭があり粽が絶対にかかせない。季節感が薄らいでいるとはいえ、身体が自然のリズムに呼応するからこそ深みがあるのだと思います。