京まち洛々記

内側から見た京都をご案内

学問の都とおもろいの文化

 今月1日、京都大学特別教授の本庶佑氏がノーベル医学生理学賞を受賞しました。なぜ京都大学はこれほど多くノーベル賞受賞者を生むのか?

それはこの大学は名門校でありながら、教育に不熱心で自由で奇人変人を全国から受け入れるからなのでしょう。大学総長の山極氏はゴリラの研究者で、Panasonic松下電工)創業者の松下幸之助氏のリーダーシップ(特に背中で語るといった部分が)をゴリラに近いと著書で述べたり独自の視点を持ち、この人もおもろい学者。

 京都或いは関西では頭が良いはあまり誉め言葉にはならず、(京都では皮肉と捉えられることもある)「おもろい」というのが誉め言葉。事実、京都、関西の研究者たちは発表の際、学会の会場が静かすぎると落ち込むのだそうです。そして、何事も京都人はとことん追求するのが好き。だから職人の街でもあり、学問の都でもあるのです。

 

 自由といえば、私も短大生時代に髪をピンクに染めた子が同じ学科にいたりしましたし、アバンギャルドな恰好をする子がいても、それもええんちゃうという空気があった。それも含めておもろいなのだろう。

 

左京区、Homecoming

 左京区を歩くと学生気分に戻ることがある。洛中の町なかと並び、文化的に濃密な地域だからである。左京区といっても、お隣の東山区に近い地域と山間部まで南北に面積が広く、この区だけで大阪市全域よりも広い。この地域は色とりどりだ。叡電が走る地域はえーでんの東なんて古くから住む京都人は言ったりする。その昔、西田幾多郎ら京都学派、京大教授の住まい多くあったそうです。

 学生の頃は別に最寄り駅ではなかったけど、なぜかよく叡電には乗った。(地方から来た友達を案内する為ということもあったけど)一乗寺にある本屋、恵文社は今でも時々いきたくなる。本だけでなく、個性的な雑貨もあり、見ているだけで別世界だ。近くにはカフェもあり、友達と行ったお店もある。この町のカフェでは人は「個」として隠れる事ができるのだ。

 

 京都というのは学問の都という側面もある為、学生が多い。全国から集まる奇人変人を受け入れる寛容なところがこの町にはある。(学生に寛容ではない京都人を忌み嫌うのは私も同じなのです)しかし、見る人によっては寛容というより甘いと思う人もいるかもしれません。私の両親が子供の頃、学生運動が盛んだった時代に京大がある百万遍の路上で学生と機動隊が衝突。投げられたものがお店に飛んでくる為、デモがある度に店を開け閉めしていたそうだ。それでもその店主は「学生さんのやらはることやさかい」と、とくに責めなかったそうです。それほどこの町が学生に寛容だった。なので安全上の問題はあるいにせよ、京大の立て看問題に関する行政の主張には疑問に思うところもあったりします。

 

 話を戻しますと、京都新聞のCMに京都在住のバンドHomecomings(最近では京アニ制作映画「リズと青い鳥」の主題歌を担当)が出演していて、あぁこの町は学生の為にあるんだなとふと思う。京都の大学に進学を考えている人がいたら、ぜひ、左京区の町なかを歩いてほしいと思う。人間も食も面白いものがみつかるかも…?

 

祇園祭を終えて

 7月、京都は祇園祭の季節。祇園祭にはじまり、祇園祭で終わる月です。

 

 社会に出てから少し距離が生まれてしまいましたが、祇園囃子を聴くと頭からつま先までこの音色、血統が流れているのだと気づかされます。

 灯りと祇園囃子の連続、先に行くほどそれはよりいっそう染み渡るもので、毎年7月幼い頃から見続けてきた当たり前の景色は、歳を重ねれば重ねていくほど誇りになっていく。

 私の先祖も祇園祭が危機だった頃は質素倹約で乗り切ったからか、特別贅沢しようという気も実はなかったりする。内側から見る京都は観光客のそれとは違い、生活というものを質素でもいいからただそれを地に足を付けて生きていきたいという思いぐらいしかない。

 

 祇園祭は時々、葵祭と同様だと思うが、他の地域の方から金持ちの道楽だとか、毎年同じだとか揶揄される(酷いものだと子どもだけに伝統を押し付けている云々)

さらに、今年は地震や豪雨の事を考えて山鉾巡行を中止せよというクレーマーの電話まであった。平安を祈り災厄を払う為の祭なのだからだからこそやるべきで、こういった方には見に来てもらわなくて結構ですし、関わってもらおうとも私は思わない。

しかし、実際には苦労の連続だ。長刀鉾の稚児さん(伝統にお金の話を持ち込む趣味はないのでここでは触れない)はもちろん、毎年準備するのは大変な事です。(特に今年は猛暑でしたので……)それに一旦この地域を離れると、なかなか帰ってこない。

 

 この祇園祭が行われる山鉾町は住民がゼロの地域もある。そういったところは元住民(ほとんどが洛外から)や銀行、企業が協力して支えている。

山鉾町によっては代々住み続けてきた人達と新住民が一緒になって山や鉾を動かすところもある。これも十数年前から増えたマンション住民と代々下京、中京に住み続けてきた住民が対話を重ね、長い時間をかけて築き上げてきたところもある。華やかな都の祭りもその内懐に様々な問題を抱えているのだ。

 

大変な事ばかりの祇園祭だが、今年は嬉しいニュースもあった。中京区三条通室町の鷹山が2022年に巡行に復帰する事が決定!約200年ぶりの復活です。祇園祭が元の姿に戻るまであと一歩というところまできました。残りは布袋山だけです。ここもなんとか復活してほしいところです。

 

 祇園祭を支えるのは町衆の誇りとプライドだけではなく美意識にあると思っている。この美意識は我々町衆だけでなく、祭を訪れる人々にもあるものだ。その美意識が崩れない限り祇園祭は大丈夫だと思っている。戦争や大火もそうだし、ビルだらけになっても危機を乗り越えてきたのだから。

 祖父母亡き今、私にはひとつの夢がある。それは子供と一緒にこの祭りを支え受け継ぐということだ。いつか山鉾巡行に息子を参加させたいと思っている。

そんな一片の空想を浮かべていると、かつて幼い頃の私が祖母に抱っこされ、都大路を進む山鉾を見たのを思い出す。

 

来年は祇園祭1150周年となります。次の7月、またお会いしましょう。

 

水無月

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今月私は23歳になった。

十代というものが一つ歳を重ねるごとに遠くなっていく。年齢を重ねるごとに年齢というものは単なる数字記号に過ぎないと思うことがある。

 

京美人に年齢は関係なくても、京おんなというものは年齢を重ねていかないと京おんなにはならないと私は思う。

 京おんなというのはわたし的に趣が深くお坊さんの説教よりもキリッとしている。それでいて、思い切りがよく我慢強くしっかりしている。悲しみの中でも凛と背筋を伸ばしている大人な生き物といっていいでしょう。その分、『軽さ』というものがない為、人を褒めたりすることが少ない。私も祖母や母に褒められた事は多くはないのです。

 

小学生の頃、掃除の時間があったと思いますが、バケツに入った水を一滴も溢さずに廊下を歩くのにも日頃の立ち居振る舞いがものを言う。そんな事を言われたのを思い出す。

私の小学生時代はいいものではなかったが、「あんまりホントの事を言うもんと違う」なんて事を言った部分だけは京おんなの“それ”かもしれない。

顔やスタイルが良かろうと悪かろうと、ここ(心)がちゃんとしてないとあかん……。

それを教えられたのだと思う。だから私は、人に向かって「〇す」だとか「ブス」とか「ク〇」とか言ったことはない。

 

人生は夢のごとき。気楽に背伸びせずに地に足を付けて私はいきたいと思う。

 

モダン・シティ京都~明治150年によせて~

 明治維新は京都にとって史上最大の危機だった。明治天皇が東国へ行幸し、ついにそのまま帰って来られなかった。戦国の動乱であっても亡命を繰り返す愚かな将軍をしり目に天皇だけは京都を絶対に動かなかった。政治の中心が実質的に江戸に移っても。その天皇、皇室が京都を離れてしまった。市民の落胆は大変大きいもので、人口は数年で2/3に激減(34万人から23万人まで)してしまった。事実上、帝都の座を失い京都はもう終わったなんて声もあがったのだという。

 

しかし、第二の奈良になるな!というスローガンの下、(奈良の方ごめんなさい)先人の京都人は、この史上最大の危機に敢然と立ち向かった。近代都市として生まれ変わらせる為には外部の新しい強力なエネルギーと市民がタッグを組む必要があったのである。第二代京都府知事の槇村正直長州藩、三代目知事の北垣国道は但馬藩の出身である。最初、京都の人々は彼らを快く思わなかった。次から次へと新しい政策を打ち出す彼らを横目でみながら「今度来たガキ、ごくどうだ(北垣国道の洒落)」と。しかし、彼らの熱意は次第に京都人に広がっていき、気力を失いかけていた京都人に誇りを取り戻させたのです。

  

 明治の京都は全国にさきがけた新しい試みを次々に実行した。琵琶湖疎水、日本初の水力発電(世界二番目)を建設。北垣のもとで建設を指揮した田辺朔郎は学校を出たばかりの22歳の青年だった。また日本初の市電も敷設。(昭和53年に全廃)あまり知られていませんが、日本で二番目に地下路線を取り入れた都市でもあり、昭和六年、現在の阪急京都線の西院と大宮間が地下線で東京の銀座線に次いで開通しました。

 

 教育面では文部省が出来る前から町衆の人々がお金を出し合い(私の先祖も寄付金を出したのだとか)、日本初の小学校を計64作り、近代的学区制度も日本で初めて導入。京都の確固たる信念「まちづくりは人づくりから」はこの時生まれたといっていいでしょう。

高等機関では京都帝国大学(現・京都大学)、同志社大学をはじめとする大学が続々と設立。学問だけでなく知恵者も生み、ベンチャー企業も多く生んだ。堀場製作所の創業者が企業した当時はまだ京大の学生だったそうだ。

あらゆる分野で京都は先進的だった。

 伝統と革新の都市である京都が最も革新的だった時代。革新そのもの自体を伝統のひとつとして扱う。京都人の何でも日本初じゃないと気が済まないのはこの頃からすでにあったのかも? 京都というのは、絶え間ない変化と新しいエネルギーの爆発。伝統・文化をしっかりと守りつつも、大胆な変化を恐れない。これこそが京都という都市の本質です。最大の危機を脱し、明治、大正の京都は時代の最先端を行くモダン・シティとして復活。不死鳥のごとく蘇ったのです。

 京都は他所さんが良くしてきた街というのはこういった部分にあると言えます。

 

 実をいうと、明治、大正になってから京都がモダン都市になったというわけではありません。自治都市文化が応仁の乱以降からありました。観光で京都を訪れ、なんでこんな狭い通りに、ひっそりとしたところに和菓子屋さんや仕出し屋さんがあるんだろう?と思った人もおられると思います。

 応仁の乱という危機を乗り越えた京都に次の主役となった新しい力に満ちた新興の市民階層、町衆が登場。私の先祖がこれに当たります。乱の荒廃から復興した京都は上京、下京ふたつの地域からなる複合都市となっていました。それぞれ独立した自治をおこない、今でいう市議会議場みたいなものもあり、上京は一条革堂(行願寺)、下京は六角堂がその役割を担っていました。

 

 時の支配者、権力者はいつ変わるかわからない。だから大事な事は話し合いをして決めていく自治の文化が生まれた。その為の寄り合いや話し合いには場所が必要であり飲食物が必要になるし、手土産を持ってくる人もいる。だから町内には最低1軒、仕出し屋さんや和菓子屋さんが必要になる。

 生活の視点でみると、自治の文化、社交文化を形成した点において京都は日本初のモダン都市だったという見方もできると思います。一般的なイメージとしてありがちな歴史都市だとか観光だとかいう以前に自治都市としての京都が先にあると代々京の町なかに住み続けてきた家の者として申し上げておきます。

 

京都人はなぜプライドが高いのか?

今週のお題「京都」

 

京都中華思想と首都意識

 

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 日本の首都は? と質問されたら多くの人は「東京」と答える。京の町なかで生まれ育った私も間違いなく東京と答えるでしょう。しかし、京都は今でも日本の都と言われる。これはどうしてでしょうか?

「京都」という名は帝(天皇)が住む都、アジア圏内ではそのまま首都という意味になります。なので海外に行くと東京の人間より京都人の方が扱いは良いなんて話も未だにあるんだとか。

延暦十三年(794年)に桓武天皇は二つの詔を発している。

一つ目は、平安京遷都の詔(みことのり)「葛野の大宮の地(ところ)は山川も麗しく、四方(よも)の国の百姓(おおみたから)の参出来ん事もたよりにして……」というものだ。二つ目は山背国を山城国に改称する詔だ。山の背後の国から自然なる山の城の国へ。新しい都、平安京の誕生である。

 

 遷都の詔勅について我々京都人には格別な思いがある。

 これは代々京都に生まれ育った人間でなければ到底理解し得ない感情だ。時々、京都の人間は天皇に置き去りにされたという趣旨の発言をする輩がおられるが、それは京都人に向かって歴史を知らない愚か者ですと宣言しているようなものだ。明治二年(1869年)に天皇側近の反対がありながらも、明治天皇は東京へ行幸。その後、太政官も追って京都を離れた為、京都は首都機能も失った。明治天皇の後を追った市民も多かったが、東京に移った金属工芸等は今、一軒も残っていないそうです。(その後の京都についてはまた別の記事で詳しく記したいと思います)当時の京都市民は遷都反対の声を当然ながら挙げた。当時、明治政府は決して遷都ではなく臨時の行幸であると京都市民に何度も説明したが騙される形となってしまった。天皇の東国行幸蝦夷、東北といった情勢が不安定な地域を鎮撫する為、江戸を東京と改称し、東西両京とするが、正式な都は京都である。「掛けまくも畏き平安京に御宇す倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)が宣りたまふ」と即位の宣命した明治天皇はついに戻る事はなかったが、その後も遷都の詔は出されなかった。明治天皇は京都へ戻る意思があり、「ちょっと行ってくる」と京を離れたといわれています。京都御所の整備と保存を命じたのも将来的に天皇・皇室が戻る事を示唆していたと言えるのかもしれません。その為、現在でも国会の内閣法制局の答弁でも法律上、首都を定める法律は存在しない。あくまで事実上、日本の首都は東京であるというものだ。

(国会を東京に設置する法律も存在しないのだとか)

 

 奠都という事がある。この言葉には諸説ありますが、都の支部を作る、都の名を貸すという意味合いで使われる。なので江戸城跡に出来た皇居は行在所であり、京都人の感覚からすると武家の城に公家さんを住まわせるというのは違和感しかない。

 今でも年配の方を中心に東京を地方、田舎呼ばわりするのはこの為です。東京へ行く事を東(あずま)へ下る(東路)という言葉は昔から使われていました。明治政府の欺瞞に騙された京都市民は東京なんかと対等に扱わないでほしい。明治の一時期、京都を西京(さいきょう)という呼び方が流行ったが、市民はこれを拒否。都の本家本元は我々京都で、いつでも京都が日本最上級の存在で自分達が日本の中心である。自分たちの文化を中心に考える。京都以外の地は野蛮。恐ろしいぐらいのプライドの高さ。これが京都中華思想と呼ばれるものです。(これでも私は、中華思想は薄い方だ)

「くだらない」という言葉は都のものとして地方に降りていくほどの事もないモノの事だ。

 京都が好きな人もこの中華思想には辟易する人が少なくない。何をお高く止まっているんだと思う人も中にはおられましょう。しかし、そう目くじらを立てることもありません。京都の素晴らしい伝統と文化が維持されているのも中華思想が原動力になっているおかげというのも確かなのです。誇りのない地に文化は生まれませんし、プライドのない者に創造は望めるはずもありません。中華思想のない京都は、それはもうただの地方都市に過ぎない。京都を理解することは京都中華思想を理解することにほかならないのです。これは決して排他的なものではございません。京都の伝統・文化に従う者はどこの出身であろうと受け入れる。そうでなければ学生の町としても成立はしないわけですし、その寛容さを忘れてプライドだけ高いのは愚かな事です。

 

 では今も京都人が首都の座を取り戻したいと思っているのか? 答えはノーです。

 

 政治・経済まで京都が首都だと思っている京都人はまずいませんし、(もしも、いたら紹介してほしいぐらいだ)国会や首相官邸などがあっても邪魔なだけです。天皇、文化面で首都の座を取り戻したいと思っていても、私達京都人はそこまで考えているわけではないのです。日本の国柄を考えてそうすべきだというだけで、どれだけ他の地域の人間に批判を浴びようともそれを曲げることはないでしょう。先ほども申しました通り、恐るべきプライドの高さを持つのが京都人です。他の地域の京都批判は大抵京都に恩恵を与えているつもりでいる観光客目線かやっかみに過ぎない意見なので耳を傾けるほど京都人も暇ではない。その点、お隣の大阪人は京都の事をよく見ていて、痛い所を突いてくる。マストドンにおられる大阪の方、私が勤める会社の大阪生まれの上司がまさにそうだ。「きっつい事言うわ」と思いながらも、大阪の人は京都の事を批評するのが上手いと感心したりするのです。

 

今後の京都の在り方とは? 本当の意味での世界の文化首都・京都を目指して

 

 一部の政治家や皇室の専門家が天皇は京都にお戻りになるべきと意見を耳にしますが、現実的には厳しい。それこそ2,30年或いはそれ以上の時間がかかるでしょう。(文化庁の移転ですら1987年に国へ要望が始まった為、30年はかかっている事になる)即位の礼京都御所でという意見もありますが、これも警備上の問題など課題が多くあるのが現実です。京都府・市が掲げている双京構想というものがあります。

 まだ構想から5年ほどしか経っていませんが、これは「皇室の方々が出席される国際会議や宮中行事の京都での実施などにより,皇室の方々が京都へお越しいただく機会を増やし,1週間,そして1箇月間という長期の御滞在へとつなげ,将来的にはお住まいいただくことを目指します。」という構想で、分かりやすく解説を加えるのならば京都・東京の両都制を目指すという案です。(海外ではオランダのアムステルダム、ハーグなどがその例)

 私は(全面的に賛成というわけではないですが)日本本来の国柄を取り戻す上で良い構想だと思っています。元々城下町・江戸が東京に改名されたのも両京を意味するものであり、首都と王都を分けるのは国際的には珍しい事ではありません。ただ京都人全員のコンセンサスが取れていないのは確かです。「京都ぎらい」の著書で知られる井上章一氏は、「中京、下京の山鉾町の人は尊王精神を持っておられない」という趣旨の文章を見ましたが、これは間違いです。長刀鉾の鉾頭(長刃)刃先が前方に向かず必ず右側、向かって左に向いているのは京都御所祇園社に刃先を向けない為で、そんなところに我々京都町衆の尊王精神が現われているのです。(外から見た京都の本はあまり信用しないようにお願いします)

 個人的に驚いた事なんですが京都御所を東京の皇居より下に思っている方が意外と多い。これは全くの間違いで旧御所でも離宮でもなく、今でも皇居と同じく現役なのです。御所は王城の地・京都の精神的シンボルなのです。本当は京都をわざわざ付ける必要はなく、御所(おんところ)だけでよく、意味はそのまま今、陛下(帝)がおられる場所という意味です。

 双京構想は現実的には儀典都市京都の復活が先で、皇族方にお住まい頂くのはもっと先の話です。

 簡素にというのであれば、より京都御所即位の礼大嘗祭を行っていただきたいと思います。(昭和天皇までそうだったのだから実はこれが一番実現可能)東京一極集中是正だとか、京都の為ではなく、歴史や伝統に則ってやるべき。ただそれだけの事です。

宮内庁は大して役にも立っていない官僚の天下り団体と化していますから、我々京都人のほうが遥かに皇室の弥栄の為の知恵を持っていると思います。儀典都市として復活してから将来的には、天皇陛下、皇室に京都にお戻りいただくべきで、最初に上皇(正式には太上天皇)に京都に住んでほしいという案を先に出した京都市側の考えには違和感を覚えたものです。

 文化庁の京都移転が決まりましたが、私は文化庁が京都に来たからといってすぐに京都が文化首都になるとは思っていませんし、それだけで文化首都と名乗るのも無理がある。都合の良い時だけ京都人のプライドを出されても困るのです。なぜ京都が文化首都なのか? それを内外にしっかりとビジョンを示し、学生、若い人を中心に躍動できる場を増やす。音楽、芸術といった活動の環境整備などそれをやった上で文化首都になれるかどうかでしょう。

 最後に様々な考えや見方がありながらも多くの人々に注目を集め想われる京都はやっぱり幸せな都市だなと思います。日本人の何十倍にも凝縮したのが京都人であり、室町時代から続く町衆の血を受け継いでいるのが私なので、度し難い部分があれば、どうぞ笑って見過ごしていただきたいと存じます。これだけ長々と文章を書きましたが、少しでも京都の事をご理解いただければ幸いです。

京都はなぜ、観光都市ではないのか?

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法観寺八坂の塔 京都市東山区

他所の地域からやってきた観光客と京都市民の意識には大きなズレがあります。

京都といいますと、歴史ある寺社をはじめとする文化財があり、魅力が多くあるのは事実。しかし我々京都人は世代を問わず、観光というものに対してありがた迷惑、冷淡であるという人が一定数いるのです。私にとって、京都は単なる生活の場であり、観光都市と言われるのはありがた迷惑だと思う事もあります。生活も観光とは無関係な要素でもっているので。一部の観光客は何か京都に恩恵を与えてやっているつもりの人がいる。酷いのになると好き勝手な立ち居振る舞いが許されると勘違いした愚かな人も見かけます。

 

昔から京都には「おのぼりさん」という言葉がありますが、他の地域から京都に来られる方はみんな「おのぼりさん」です。祖母から訊いた話ですが、昔は修学旅行生を「いな中」「いな女」と呼んで区別していたのだとか。意味はそれぞれ田舎の中学生、田舎の女学生というなかなか選民思想丸出しのエピソードです。(同じ洛中人士の私でもさすがにこんな事は言った事はないが)

 

また市民は基本的に生活の中にはあまり入ってほしくないと思う人が多いのも事実です。民泊問題がまさにそうですね。市民生活に支障をきたしてしまうようでは元も子もない。だから市民と同じようにルールを守っていただきたい。例えばパリやローマでも、観光は市民の生活には何も関係はない。観光するのは構わないが、私達はこれを守っていくというものがあるように思います。

(ただし、今後の観光に対する対応や研究は否定しない)

 

実をいうと京都は観光だけではとてもやっていけない街でして、観光業は京都市民の(統計の取り方にもよるでしょうが)せいぜい一割~二割(04年時で11.5%)の人間を食べさせているのに過ぎません。私が小学生の頃ですら、京都市の市内総生産に対する観光消費額は全体の10%にも満たなかった(7.5%)のですから尚更です。その当時(04年年間観光客数は約4500万人)と比べてさらに一千万人以上も観光客は増えましたがそれでも恩恵を受けているのはごく一部の市民に過ぎないのです。

もしもこの先、京都を訪れる観光客が今の半分、或いはそれ以下に激減したとしても大抵の市民は困らないんです。メディアでは季節ごとに京都の魅力を取り上げていたりしますが、ありがたい半面、裏を返せばこれは京都市が現代都市としてあまりにも酷い過小評価が蔓延しているということなのでしょう。

 

 京都市は巨大工場こそ少ないものの、伝統産業も含めて、昔から工業都市としての側面が一番強く、明治ぐらいまでは日本の工業生産高の一割を担うほどでした。京都の企業も京セラ、オムロン島津製作所日本電産任天堂、ワコールといった全国的にも有名な企業は数多い。当然、商業都市としての側面もあり、人口の約一割を学生で占める学都でもあり、バランスはとれているのではないかと思います。私はこれを首都型都市という風に定義しており、該当する都市は京都と東京だけです。大阪、神戸や名古屋、福岡も立派な都市ではあるものの、産業構造が違うように思います。千年以上日本の都であり続ける京都は今でもその性質は残っております。(ここ数年は自信を失いかけている部分もあるが)

 

 

さらにもう一つ踏み込みますと、観光のイメージでありがちなのが古都という言葉です。 かつて平城京藤原京(新益京)があった奈良はともかく、鎌倉や金沢といった都でもなかった地方都市と一緒に古都と一括りにするとほとんどの京都人は気分を害します。

確かにどの町もそれぞれ歴史があって、素晴らしい文化はあると思いますが、都市としての構造が基本的に違います。この三つの町は京都のように都市として多くの人口を抱えているわけでもなく、産業、商業都市としての側面をもっているわけでもないので京都と同列に扱う事自体無理があるのです。

 

 なので京都は観光都市だから〇〇すべきだという意見は京都の実態を何もしらない人間と見なされるのでこういう事は言わないようにしましょう。

観光自体は大変結構な事だとは思いますが、だからといって京都という町や人が観光客の為だけに尽くす存在でなければならないという事とはおのずから別問題なのです。